今回相模原市の障害者支援施設で起きた凄惨極まりない殺傷事件。
あの地下鉄サリン事件等をも超える戦後最悪の死傷者を出したという点でも
未曾有の事件となりました。
被害者は重度の障害を持つ方々で犯人も精神障害の診断を
受けていたということで障がい者にスポットが当たっていますが、
自分もそのうちの1人であること、更に就労継続支援A型事業所で知的障がい者らと
共に働いているということで今回の事件は全く他人事とは思えず色々な考えが浮かびました。
この事件についてだけでなく、更に大局的な話も含めて
長文になりますがここに書き留めようかと思います。
あの地下鉄サリン事件等をも超える戦後最悪の死傷者を出したという点でも
未曾有の事件となりました。
被害者は重度の障害を持つ方々で犯人も精神障害の診断を
受けていたということで障がい者にスポットが当たっていますが、
自分もそのうちの1人であること、更に就労継続支援A型事業所で知的障がい者らと
共に働いているということで今回の事件は全く他人事とは思えず色々な考えが浮かびました。
この事件についてだけでなく、更に大局的な話も含めて
長文になりますがここに書き留めようかと思います。
■犯人の動機に思うこと
自分が注目した点の1つが容疑者の障がい者に対する強烈な差別的態度・言動。
「障がい者は全員死ねばいい」「その方が家族は幸せになれる」
衆院議長にあてた手紙の「障がい者を抹殺することができる」と
とても正気とは思えない数々の発言・態度が目立ちこれだけでも悪寒を感じるものがあります。
その一方で自宅周辺では気のいい人という評判もあったということです。
私は「重度の知的障害者に接するうちにその人達と自分は別の生き物であるという
隔絶した壁を作ってしまったのではないか」と思いました。
「ヒトラーの思想が降りてきた」とも供述しているといい、まさしくヒトラーのような
強烈な優生思想が根底にあるのは間違いないのではないかと感じます。
私もA型事業所で知的障がい者と接することがあります。
(とはいっても労働する場なのでそこまで重症の方はいません)
私自身短気な上にストレス耐性が弱いせいもありますが、その人達の
思考力・行動力の鈍さ等に度々苛立ちを感じ上司に相談したことが何度もあります。
本音を言えば能力のある自分とそうでない他の人が雇用形態の関係上同列扱いで
あることに不満を感じたり、この事件の容疑者のような「一線を超える」敵意を
抱くこともありました。
ただここで私が重要だと思うのは「相手の立場に立った考え方ができるか」と
いうことかと思います。
その人達もなりたくて障害を患った訳ではありません。
育った環境や対人関係等々自分とは全く違う人生を歩んできたのです。
ここまで大仰に考える必要はないかもしれませんが要は「相手も相手なりの苦労をしている」
ということを理性で受け止められるかということなんじゃないかと。
私も前述したように短気で繊細な性格ではありますが最低限その点は弁えているつもりです。
容疑者は施設の人に態度を戒められた際「自分の考えは間違っていない」と言ったようですが、
この一点について容疑者は相手の立場を全く考えない傲慢な思考に陥ってしまい
その末路が今回の凄惨な事件に繋がったのではないかと思います。
■障がい者と健常者
今回の事件を受けて障がい者を支援する各団体が声明を発表しました。
・DPI(障害者インターナショナル)日本会議による緊急抗議声明
・COMHBO(地域精神保健福祉機構)による声明
上記の声明で触れられている通り、池田小児童連続殺傷事件が起きた時
報道で「犯人は精神障がい者」という点がクローズアップされ
「精神障がい者は危険」という多大な風評被害が広まってしまったといいます。
今回の事件は精神障がい者に留まらず障がい者全体に対する健常者の見識が
問われるのではないかと思いました。
またDPI日本会議の声明にある「マイノリティに対するヘイトスピーチやヘイトクライムが
引き起こされる社会状況」について言及しています。
マイノリティを排斥する動きは何も今回の事件だけでなく、アメリカで昨今大きな
社会問題となっている白人と黒人の対立や国内においても極右思想のヘイトスピーチが
あり枚挙に暇がありません。
この点については次の項で見解を述べたいと思います。
この所感を書く上で参考にしようと思い図書館で以下のような本を借りました。
障害と社会の関わりあい方を解説した児童書です。
この中で最も興味深かったのが最後の項目「ノーマライゼーションとバリアフリー」でした。
ノーマライゼーションとは「正常(ノーマル)にすること」という意味。
そしてバリアフリーは健常者・障がい者の間にある壁(バリア)を
取り除いていこう(フリー)という意味です。
この中で注目したのが以下の一文です。
社会にはいろいろな人がいます。強い人も、弱い人もいます。若い人も、
老人も子どももいます。いろいろな人がいて、いろいろな人の都合があって、
そういう人々がみんな一緒に暮らしていくこと、それが「正常な社会」なのだと、
考えられるようになってきたのです。
この「いろいろな人」がいることを理解し許容できる人が増えていくか否かが、これから
ノーマライゼーション・バリアフリーの社会を構築していく上で重要な点ではないかと思います。
■価値観
ここまで述べたことについて私が結論として主張したいのは
多種多様な価値観を受け入れられるかどうかにかかっているのではないかと思います。
国・地域・環境・思想・宗教等その人の置かれる立場によって価値観は十人十色です。
それを真っ向から否定した上での末路が戦争やテロです。
このようにお互いが相手の価値観を認めない状態が続いても状況は悪化するばかりです。
私は他の価値観を許容する「寛容」の精神が現代人には必要なのではないかと思っています。
私は塩野七生さんの名著「ローマ人の物語」が好きで図書館で借りて何度か読破しているのですが、
古代ローマ史において帝政の礎を築いたユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は
敵との戦いに勝っても相手の将や兵士達を殺すことはなく自由にさせています。
彼は「私がなにものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。
だから、他の人もそうであって当然と考えている」このように書簡の中で述べたといいます。
この発言からも相手に自身の価値観を強要しない寛容さを感じられます。
更に以下のようにも述べています。
「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。
多くの人は、自分が見たいと欲することしか見えていない。」
我々にとっても非常に耳の痛い言葉です。
人間は誰しも自分の価値観で独善的な行動をしてしまいがちな生き物です。
カエサルはそれを知っていながらも、相手を完全に屈服させることはなく
相手の意志を尊重した行動を一貫してとっています。
この「寛容(クレメンティア)の精神」こそがカエサルの偉大さだと塩野氏も述べていますが、
これを忘れてしまった現代人の末路が前述した戦争やテロ、ヘイトスピーチなのでしょう。
よく野球やサッカーの世界において有名な選手が現役を引退する時最後の試合で
両チームから賞賛の拍手が送られることが度々見られます。
このような敬意、相手を敬う気持ちを誰もが持てるようになれば
殺伐となってしまった世界に歯止めをかけられるのではないかと思います。
■おわりに
最後になりましたが、ここまで専門家でもない一個人の私の所感を読んで頂き
ありがとうございました。
生来生真面目な性格でこういったことについてどうしても自分の意見を発信したいと
思う時があるものの、現実では口下手・内向的でなかなか主張できませんが
情報化社会の発達によってこのように簡単に発信できるのは大変ありがたいことだと思いました。
自分が注目した点の1つが容疑者の障がい者に対する強烈な差別的態度・言動。
「障がい者は全員死ねばいい」「その方が家族は幸せになれる」
衆院議長にあてた手紙の「障がい者を抹殺することができる」と
とても正気とは思えない数々の発言・態度が目立ちこれだけでも悪寒を感じるものがあります。
その一方で自宅周辺では気のいい人という評判もあったということです。
私は「重度の知的障害者に接するうちにその人達と自分は別の生き物であるという
隔絶した壁を作ってしまったのではないか」と思いました。
「ヒトラーの思想が降りてきた」とも供述しているといい、まさしくヒトラーのような
強烈な優生思想が根底にあるのは間違いないのではないかと感じます。
私もA型事業所で知的障がい者と接することがあります。
(とはいっても労働する場なのでそこまで重症の方はいません)
私自身短気な上にストレス耐性が弱いせいもありますが、その人達の
思考力・行動力の鈍さ等に度々苛立ちを感じ上司に相談したことが何度もあります。
本音を言えば能力のある自分とそうでない他の人が雇用形態の関係上同列扱いで
あることに不満を感じたり、この事件の容疑者のような「一線を超える」敵意を
抱くこともありました。
ただここで私が重要だと思うのは「相手の立場に立った考え方ができるか」と
いうことかと思います。
その人達もなりたくて障害を患った訳ではありません。
育った環境や対人関係等々自分とは全く違う人生を歩んできたのです。
ここまで大仰に考える必要はないかもしれませんが要は「相手も相手なりの苦労をしている」
ということを理性で受け止められるかということなんじゃないかと。
私も前述したように短気で繊細な性格ではありますが最低限その点は弁えているつもりです。
容疑者は施設の人に態度を戒められた際「自分の考えは間違っていない」と言ったようですが、
この一点について容疑者は相手の立場を全く考えない傲慢な思考に陥ってしまい
その末路が今回の凄惨な事件に繋がったのではないかと思います。
■障がい者と健常者
今回の事件を受けて障がい者を支援する各団体が声明を発表しました。
・DPI(障害者インターナショナル)日本会議による緊急抗議声明
・COMHBO(地域精神保健福祉機構)による声明
上記の声明で触れられている通り、池田小児童連続殺傷事件が起きた時
報道で「犯人は精神障がい者」という点がクローズアップされ
「精神障がい者は危険」という多大な風評被害が広まってしまったといいます。
今回の事件は精神障がい者に留まらず障がい者全体に対する健常者の見識が
問われるのではないかと思いました。
またDPI日本会議の声明にある「マイノリティに対するヘイトスピーチやヘイトクライムが
引き起こされる社会状況」について言及しています。
マイノリティを排斥する動きは何も今回の事件だけでなく、アメリカで昨今大きな
社会問題となっている白人と黒人の対立や国内においても極右思想のヘイトスピーチが
あり枚挙に暇がありません。
この点については次の項で見解を述べたいと思います。
この所感を書く上で参考にしようと思い図書館で以下のような本を借りました。
障害と社会の関わりあい方を解説した児童書です。
この中で最も興味深かったのが最後の項目「ノーマライゼーションとバリアフリー」でした。
ノーマライゼーションとは「正常(ノーマル)にすること」という意味。
そしてバリアフリーは健常者・障がい者の間にある壁(バリア)を
取り除いていこう(フリー)という意味です。
この中で注目したのが以下の一文です。
社会にはいろいろな人がいます。強い人も、弱い人もいます。若い人も、
老人も子どももいます。いろいろな人がいて、いろいろな人の都合があって、
そういう人々がみんな一緒に暮らしていくこと、それが「正常な社会」なのだと、
考えられるようになってきたのです。
この「いろいろな人」がいることを理解し許容できる人が増えていくか否かが、これから
ノーマライゼーション・バリアフリーの社会を構築していく上で重要な点ではないかと思います。
■価値観
ここまで述べたことについて私が結論として主張したいのは
多種多様な価値観を受け入れられるかどうかにかかっているのではないかと思います。
国・地域・環境・思想・宗教等その人の置かれる立場によって価値観は十人十色です。
それを真っ向から否定した上での末路が戦争やテロです。
このようにお互いが相手の価値観を認めない状態が続いても状況は悪化するばかりです。
私は他の価値観を許容する「寛容」の精神が現代人には必要なのではないかと思っています。
私は塩野七生さんの名著「ローマ人の物語」が好きで図書館で借りて何度か読破しているのですが、
古代ローマ史において帝政の礎を築いたユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は
敵との戦いに勝っても相手の将や兵士達を殺すことはなく自由にさせています。
彼は「私がなにものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。
だから、他の人もそうであって当然と考えている」このように書簡の中で述べたといいます。
この発言からも相手に自身の価値観を強要しない寛容さを感じられます。
更に以下のようにも述べています。
「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。
多くの人は、自分が見たいと欲することしか見えていない。」
我々にとっても非常に耳の痛い言葉です。
人間は誰しも自分の価値観で独善的な行動をしてしまいがちな生き物です。
カエサルはそれを知っていながらも、相手を完全に屈服させることはなく
相手の意志を尊重した行動を一貫してとっています。
この「寛容(クレメンティア)の精神」こそがカエサルの偉大さだと塩野氏も述べていますが、
これを忘れてしまった現代人の末路が前述した戦争やテロ、ヘイトスピーチなのでしょう。
よく野球やサッカーの世界において有名な選手が現役を引退する時最後の試合で
両チームから賞賛の拍手が送られることが度々見られます。
このような敬意、相手を敬う気持ちを誰もが持てるようになれば
殺伐となってしまった世界に歯止めをかけられるのではないかと思います。
■おわりに
最後になりましたが、ここまで専門家でもない一個人の私の所感を読んで頂き
ありがとうございました。
生来生真面目な性格でこういったことについてどうしても自分の意見を発信したいと
思う時があるものの、現実では口下手・内向的でなかなか主張できませんが
情報化社会の発達によってこのように簡単に発信できるのは大変ありがたいことだと思いました。